So-net無料ブログ作成

DR Summicronは選ばれたレンズなのか? [レンズ]

1937年に米国のイーストマン・コダック社はランタンなどの元素を含む光学ガラスを白金坩堝で溶解することに成功、1940年代には放射性物質の酸化トリウムを硝材に添加して収差を良好に補正したレンズが開発・生産されるようになります。最初期のトリウムレンズとしてはイーストマン・コダックの航空写真偵察用レンズ「エアロ・エクター」…ジョージ・H・エイクリン(George H. Aklin)が開発・設計して1941年10月8日に米国特許を出願した"AERO-EKTAR 7in.(178mm) F2.5"などがよく知られていますが、同じく第二次大戦中、イギリスでも硝材に酸化トリウムなどを添加すると従来にない光学性能を付与できることが発見され、戦後、その情報はドイツにも伝えられました。
(ルドルフ・キングズレーク『写真レンズの歴史』(雄倉保行訳・朝日ソノラマ刊)の第5章 第Ⅳ節(p.77~81)に、米国・ワシントンの地球物理学研究所(Geophysical Laboratory)のG.W.モーリー(George W. Morey)が1934年にホウ酸塩ガラスにランタンを添加した新種ガラスを開発し、さらにタンタルやトリウムまでも加えたガラスも試作したとあります。同書は続けて、1937年にイーストマン・コダックが溶解に成功したのはそのモーリーが開発した新種ガラスの一部で、同社はその後まもなく7種のランタン・クラウンを世に出したと記しています。1939年7月12日に、イーストマン・コダックのレオン・W・エバーリン(Leon W. Eberlin)とポール・F・デ・パオリス(Paul F. De Paolis)が、酸化トリウムを配合した硝材の米国特許No.2241249を出願しています。)

1950年、エルンスト・ライツはトリウムガラスを用いた写真撮影用レンズの特許を出願します。開発に携わったのはグスタフ・クライネベルク(Gustav Kleineberg)とオットー・ツィンメルマン(Otto Zimmermann)。ドイツ特許の出願は1950年1月9日、同年7月20日には米国特許も出願されました。

"radio-active material", "radioactive radiation", "radio-active rays"などの語が印象的なこの米国特許No.2622478には二つのレンズ構成が記されています。EXAMPLE 1(FIG.1)は1939年のマックス・ベレーク(Max Berek)設計のSummitar 5cm F2の第一群を分離したような5群7枚構成で、1枚目・3枚目・6枚目・7枚目の4枚をトリウムレンズとして、そのさらに後ろ、7枚目のレンズとフィルム面の間にフリントガラスのスクリーンを設けて、それに含まれる鉛で放射線を止めるという構成、EXAMPLE 2(FIG.2)は3枚目と4枚目も分離した、後のズミクロンと同じ6群7枚で、1枚目・3枚目・6枚目がトリウムレンズで、7枚目にフリントガラスを使用して放射線封止の役割を兼ねさせるという設計のようです。トリウムガラスを使うに当たって、トリウムレンズを付けっぱなしにしたカメラにフィルムを入れっぱなしにして長時間放置した際に放射線がフィルムを感光させてしまう放射線被りが起こる可能性を危惧して、その対策に腐心した様子が伺えます。

この特許が出願された同じ1950年、あるいは翌51年とする説もあるようですが、81万台のシリアルナンバーを持つ奇妙なレンズが出現します。Summitar銘のすぐ後にアスタリスクが刻印されていることから「ズミタール・スター」と呼ばれるレンズ、Summitar * 5cm F2です。「奇妙な」と書いたのは、このレンズの構成がはっきりしないからです。ズミタール・スターは後のズミクロンと同じ6群7枚のレンズ構成とする説が大勢のようですが、ズミクロンとは違うとする説もあり、また、ズミタール・スターは新種ガラスを採用していてトリウムレンズではないとする説があるかと思えば、ズミタール・スターにはイギリスのチャンス・ブラザーズ社のトリウムガラスを用いたレンズが4枚使われているとする説もあり、真相がよく分かりません。ズミタール・スターに割り当てられたシリアルナンバーは 812242 から 813231 までの990本分ですが、しかし、調べた範囲で分かったことは、ズミタール・スターは生産数が非常に少ない、おそらく80本前後と思われるということぐらいです。もしも構成がズミクロンと異なるとすれば、そしてもしもトリウムレンズが4枚とするなら、前述の1950年出願特許のEXAMPLE 1(FIG.1)を想起させられ、またはもしもズミクロンと同じレンズ構成とするなら同じくEXAMPLE 2(FIG.2)を想起させられ、いずれにしても非常に興味をそそります。もしかすると、ズミタール・スターには複数のレンズ構成が存在するのかもしれません。おそらくズミタール・スターはズミクロンのアルファテストバージョンのようなものなのでしょう。
("Summitar"のカナ表記は、現代ドイツ語の発音に従う表記を採れば「ズミター」ですが、現役製品だった当時の発音に従うなら「ズミタール」の方が近いと思われます。)

1951年、92万台から始まるシリアルナンバーを持つ沈胴・ライカスクリューマウントのSummicron 5cm F2の生産が始まります。これがかの有名な「放射能ズミクロン」("Radioactive Summicron"、または"Thorium Summicron")で、チャンス・ピルキントン・ブラザーズ(チャンス・ブラザーズは51年にイギリスの板ガラスメーカーのピルキントンが全株式を取得し、その完全子会社となりました)がトリウムガラスを供給したこのレンズは1950年出願の特許のEXAMPLE 2(FIG.2)に相当します。100万未満のシリアルナンバーを持つものは特に「アンダー・ミリオン」と呼ばれて中古市場では珍重されます。日本では「プロトタイプ・ズミクロン」と呼ばれることもあるなどベータバージョン的に扱われますが、欧米では、稀な例と思われますが、"Original Summicron"と呼称されることもあるようです。
(写真工業2004年9月号のp.83~84に掲載された財団法人 放射線計測協会の測定データによると、放射能ズミクロン(シリアルナンバーは記事に記載されていません)の放射線量率は、レンズ表面で 1.45µSv/h、レンズから10cmの位置で 0.22µSv/h、レンズから30cmの位置で 0.10µSv/hを検出、レンズから1mではバックグラウンド値と同じ 0.07µSv/hで自然放射線のレベルと同じ値です。この値から、このレンズを1日に8時間・1年に365日扱うと仮定し、全身についてはレンズから30cmの、眼の水晶体についてはレンズから10cmの、手の皮膚についてはレンズ表面の計測値を用いて1年間に受ける放射線量を推計すると、全身が受ける放射線量は約90µSv/年、眼の水晶体は約440µSv/年、手の皮膚では約4,030µSv/年となり、法令の定める一般公衆の線量限度を大きく下回ります。)

しかしライツでは放射線の影響を憂慮して新たな硝材の開発を進めます。ニューヨーク・ライツの科学機器担当副社長を務めたことのあるエーミール・G・ケラーは『ライカ物語・誰も知らなかったライカの秘密』(竹田正一郎訳・光人社刊)のp.183にこう書いています。
 トリウムを使うとなるほど光学性能は向上するのですが、放射能があるので問題が出てきます。そこで酸化トリウムの代わりに放射能のない希土類元素を使う研究を始めました。ヴァイセンベルク博士と助手のハインツ・ブレーマーという技師が、ほかの部門で別の用途に使っていた酸化ランタンを使う方法を発見しました。これで屈折度を高めて分散特性を改良することが可能になったのです。
 その結果としてレンズのRを小さくしても収差の補正が改善できるという結論が得られることになりました。(中略)
 ライツ社ではこれの特許を取り、ショット社を含む他のヨーロッパのガラスメーカーとライセンス契約を結びました。

トリウムレンズを廃した6群7枚・沈胴のSummicron 5cm F2は1953年に登場し、現在、これが初代ズミクロンと見なされています。トリウムレンズではないため、硝材の違いに対応して放射能ズミクロンとはレンズの曲率が異なります。1954年には、フーゴ・ヴェーレンフェニヒ(Hugo Wehrenfennig)がバヨネットマウントの設計を担当したLeica M3の登場に合わせて、Mマウントのモデルが発売されます。
(放射能ズミクロンや沈胴ズミクロンのレンズ構成については、米国特許No.2622478のEXAMPLE 2は商品化されていないとする異説があります。また、地人書館から刊行されている吉田正太郎著『カメラマンのための写真レンズの科学』のp.130には、ズミクロンのレンズ構成として同特許のEXAMPLE 1からフリントガラスのスクリーンを取り除いた構成が紹介されています。)

ズミクロンが当時の日本でも大いに注目されていたことは、1955年に千代田光学精工(ミノルタ)がこのレンズ構成をそっくりパクったレンズを投入したことからも伺えます。そのレンズはスーパーロッコール5cm F2。アサヒカメラ1957年12月号のニューフェース診断室では開口効率の低さ(28%=当時のJIS輸出規格の許容下限値に同じ)が指摘された以外はなかなかいい評価が下されたものの、しかし「やくざなガラス玉」と酷評する写真家もいたといいます(神尾健三著・朝日ソノラマ刊『ミノルタかく戦えり』よりp.57)。硝材の成分まではパクれなかったのか、解像力はズミクロンに遠く及ばなかったのです。このミノルタが後にライツと提携して本物のズミクロンを生産することになる(M-ROKKOR-QF 40mm F2)とは、このとき誰にも予想できなかっただろうと思います。

ただ、当時の日本のレンズ設計者の中にはズミクロンの設計に対して懐疑的な見方があったことが、アサヒカメラ1993年12月増刊『郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』のp.119~129、「座談会 特集 国産レンズの来た道3 黎明期の設計者たちが語るレンズ求道」での富士写真フイルムの土居良一氏やキヤノンの伊藤宏氏の発言(p.125)から伺えます。土居氏はそこで、もっともズミクロンが画期的なものであったかどうかは人それぞれで違うと思いますがね。と語り、それに重ねて伊藤氏は
 日本人にはドイツのレンズがいいという先入観がありますからね。ぼくはズミクロンは実力以上に評価されていると、実は思っているんです。まあ、あれだけの材料を使い、あれだけ凝った設計をすれば、もっといいレンズになる、もっと簡単にできるんじゃないかという気がしないでもない。
 いまデータを持っていないからはっきりいえないけれど、たとえば、きわめてわずかな空間を空けるとか、使っている材料に特殊なものを採用しているとか、レンズの曲率にしても非常にきつい方法でやっているから、一度にたくさん磨けないなどと、いろんなことがある。だから、ズミクロンと同じものをキヤノンでつくるかといえば、つくらないでしょうね。(笑い)
と語っています。実際、丸善が1960年6月15日付で発行した『科学写真便覧 上』は、第7章「レンズおよび光学器具」より第3節「レンズの種類」のp.266で、ズミクロン(刊行時期から、おそらくMマウントの固定鏡胴ズミクロンと思われます)を、各収差ともよく補正されているが特に非点収差および像面彎曲の補正が良好である.しかし画面中間部のコマ収差が未だ幾分残存している.と評す一方、伊藤宏氏が設計したCANON 50mm F1.8について、
キャノンレンズ50mm F1.8 はビオターの中間部のコマ収差が絞りのすぐ後の凹面の作用によることに気がついて,その負の作用を第2ブロックの貼合わせ面のところに持ってゆきカーブをゆるくしたのであるが,非常によくコマ収差が補正されている.
と高く評価しています。

1956年、6群7枚のズミクロンは沈胴から固定鏡胴へと変わります。そして、近接撮影が可能な鏡胴構造を持つDRズミクロン("Dual Range Summicron"、"Summicron Dual Range"、"Near Field Summicron"、または"Summicron mit Near-Focusing Range")も登場します。光学設計は固定鏡胴もDRも同じです。

この固定鏡胴ズミクロン及びDRズミクロンを日本では前期と後期に分け、ヘリコイドリングのギザギザが山に付くか谷に付くかで見分けます。この光学設計ですが、沈胴ズミクロンと固定鏡胴/DRの前期型は同じで固定鏡胴/DRの後期型で変更されたとする説と、固定鏡胴化される際に光学設計も変更されたとする説があります。前者の見方は中村信一著・朝日ソノラマ刊の『新M型ライカのすべて』のp.177、沈胴から固定にかわり、強度が増している。レンズの構成は同じであるが、後期には、発表していないがレンズの設計を変更したようだ。という根拠不明の記述を出典とします。一方、後者の見方はハヤタ・カメララボの根本泰人氏がデジカメWatchに発表されているほか、Ken Rockwell氏もこちらの見方を採っていますが、両氏とも根拠を示していません。では、本当はどちらが正しいのでしょうか。

固定鏡胴ズミクロンは月刊アサヒカメラの1959年4月号のニューフェース診断室で計測されています。絞り開放時の中心部解像力が測定限界の280本/mmを超え、全画面平均も181本/mmに達するという記録を作ってその後破られることがなかったという伝説のテスト…ニューフェース診断室は今では解像力を計測していませんから、この記録はおそらく永久に破られないでしょう(笑)…で知られる記事です。ここで計測された固定鏡胴ズミクロンはシリアルナンバー1543774の1957年製造の前期型で、この記事は朝日ソノラマ刊『カメラドクター・シリーズ〔第2集〕 話題のカメラ診断室』のp.78~p.84に再録されました。その中に、こんな記述があります。
 初期ズミクロンは沈鏡胴式だったが、最近のものはM3のもM2のも固定鏡胴に変わり、絞りも等間隔目盛りとなって使いよくなった。レンズの曲率もかなり変わったことは表面の反射像を比較してもわかる。このようにどしどし改良していながら、明るさに関しては依然としてF2を堅持し続けて、F1.9だのF1.8だのというはんぱなスピード・アップ(アメリカあたりから、このような誘惑が持ち込まれていることは想像に難くない)に目もくれないライツの態度は、キ然としていて立派である。
少なくとも1957年には設計に何らかの変更があったことがはっきりと示唆されています。そして付け加えると、中村信一説の発表していないがという部分も厳密には正しくありません。6群7枚のズミクロンの改設計のドイツ連邦共和国特許Nr.939956が1956年3月8日に、さらに1957年8月24日に出願されたDBP1044439が1958年11月20日に公開されています。後者の改設計はオットー・ツィンメルマンが主導し、グスタフ・クライネベルクともう一人、新たにルドルフ・リュール(Rudolf Rühl)が設計者に加わったことが特許の記載から分かります。
(ニューフェース診断室の解像力テストでは、アサヒカメラ1970年9月号でテストされたミノックス判(8×11mm)のカメラ「MINOX C」(シリアルナンバー No.2324462)の Conplan 15mm F3.5 が、撮影倍率 1/163倍時に画像中心で 325本/mm を記録しましたが、この数値はアサヒカメラ誌上には掲載されませんでした。)

そしてもうひとつ、光学設計の変更についてもっと直接的に書かれた資料があります。写真工業出版社から刊行された中川一夫著・写真工業別冊『復刻版 ライカの歴史』のp.77に、こうあります。
 固定鏡胴の採用からレンズのたけが長くなり、曲率も大幅に変更されているので、この点を指摘してライツ社に問い合わせたところ、(中略)構成図が送附された。この構成図によると第2群の空気レンズの形が従来のものと異なっている。
沈胴から固定鏡胴に変わった時点で光学設計も変わっていたことが、これで明確です。『復刻版 ライカの歴史』には、このとき送附されたレンズ構成図がp.74に掲載されていますが、この構成図から、おそらくDBP1044439が固定鏡胴/DRズミクロンの光学設計に当たるのではないかと推測します。
(なお、ライカスクリューマウントの固定鏡胴モデルの光学設計について、デニス・レーニは『ライカポケットブック』に、光学的には沈胴モデルと同じ。(日本版 第二版よりp.103)と明記しています。)

また、このことから、日本国内でライカ本の定番とされている中村信一著『新M型ライカのすべて』が先人の業績を全く参照していないらしいことも分かります。中村信一氏の著作はこの書以外もそうですが、根拠不明のフィクションが多数見られ、その内容は中二病的コレクション自慢の域に留まるものでしかなく、信頼性に欠けると言わざるを得ません。中村信一氏の著作がなぜライカ本の定番と見なされているのか、中村信一氏がなぜ“ライカ研究家”と見なされているのか、理解に大変苦しみます。

アサヒカメラ1959年4月号のテストというと解像力の数値ばかりが取り上げられるのですが、その他のデータや注釈も興味深いので、以下、やや長くなりますが引用します。なお、これは前掲の引用部の直前に当たります。
 標準レンズ〝ズミクロン50㍉F2〟は6群7枚構成の大へん凝った変形ガウス型(中略)で明るさの実測値はF2.04で良好だが、焦点距離は52.0㍉で公称値よりかなり長い。(中略)
 絞りによる焦点面の移動はF5.6に絞ったとき、画面中心で0.0㍉で、これは球面収差が非常に小さいからである。歪曲は、画面周辺でマイナス0.5%(タル型)でとくに画像の寸法の正確なことを必要とする学術撮影のほかは問題ない。画面中心から周辺に行くにつれて、明るさの減る割合を示す開口効率は、開放の場合画面対角線90%の位置で47%、F2級としてはかなり大きな良い値である。(中略)特製極微粒子乾板を用いた撮影解像力は(中略)、アサヒカメラ昭和34年3月号から、テストチャートの形が変わったため、直接比較することはできないが、数値の上では最高記録を示した(注=F5.6の最高解像力が250本なのは、絞って解像力が落ちた、と解釈すべきではなく、F5.6の測定の際、ベストの状態のものが、乾板をズラせて撮影するときのズレの間にはさまれたと見るべきだと思われる)。ハロはわずか認められるが、その量はきわめて少なく、画面中心部ではF4まで絞らないうちに消失する。実際撮影の結果でも、きわめて鮮鋭なネガが得られた。

ズミクロンに必ずついてまわる解像力の数値的データですが、中川一夫著・朝日ソノラマ『ライカ物語 Leica Story』のp.278に小穴純・東京大学教授(当時)の文章が引用されていたので、出典に直接当たってみました。朝日新聞社が1955年6月25日付で刊行したアサヒカメラ講座6『カメラと撮影の基礎』のp.107です。
たとえばF4の理想レンズの、画面中心部における限界解像距離は、緑色光に対し、およそ 0.0027 ミリ、これに相当する解像力は1ミリに約370線であることを知る(実在の写真レンズでも、たとえばライツのズミクロンなどは、F4まで絞ると、確かにこれだけの解像力を示している)。
また同じく『カメラと撮影の基礎』のp.130にはこのような記述もあります。
ライツのズミクロン50ミリF2というレンズは、絞り開放でライカ型画面のどの地点でも1ミリに80線以上の解像力を示し他を引き離した鮮鋭度を持っている。たしかにF2という明るさに対してこれほど凝った設計のレンズは珍しく、その設計信条は「少しでも明るくする」のではなくて、「少しでもよくする」ことにあるように見うけられる。
(中略)ズミクロンですら、これをF8ぐらいまで絞ると、像面の彎曲という欠陥がかなり著しく現れて、こまかい複写などには不適当のように思う。
刊行時期から沈胴ズミクロンの測定に基づく記述と思われますが、F4に絞ったときの解像力は理想レンズ相当、370本/mmに達するらしいのです。


なお、6群7枚のズミクロンの設計者をウォルター・マンドラー(Walter Mandler)とする説が、WikipediaWikipedia日本語版無一居増田光紀のMINOXの世界シネレンズとオールドレンズで遊ぶ!サンライズカメラなど広く流れていますが、いずれも明確な根拠が示されず、また、上に挙げたズミクロンの特許にウォルター・マンドラーの名前は出てきません。日本語情報でのウォルター・マンドラー設計説の出典のひとつになっていると思われる朝日ソノラマ刊『クラシックカメラ専科No.50 ライカブック '99 ライカのメカニズム』に掲載された大谷昭夫「ズミクロンについての私の知識」を検討したところ、この記事はズミクロンの特許を全く参照しておらず根拠も示さず、記事内容にズミクロン特許を参照しなかったことに起因する錯誤または捏造があるため、資料的価値がないことを確認しました。
("Walter Mandler"は後にライツ・カナダに移ったことからか、英語発音に準拠したカナ表記が一般的なのでそれに倣いましたが、ドイツ語発音に準拠して“ヴァルター・マントラー”とする表記もあります。ズミクロン50mmのうちウォルター・マンドラーが設計したものは、1968年に発売された第2世代の5群6枚構成のものと、1979年に発売された第3世代の4群6枚構成のSummicron M 50mm F2があります。第3世代の設計はウォルター・マンドラーのほか、ゲイリー・エドワーズ Garry Edwardsとエーリヒ・ヴァーグナー Erich Wagnerの3名で、1976年5月18日出願のドイツ特許はDT2621981A1·DE2621981B2·DE2621981C3、1977年5月16日出願の米国特許はNo.4123144です。)


DRズミクロンについて、特に選抜されたスペシャルなレンズとする説が、日本語のメディアでは近年になってウェブ上でも紙の出版物でもたくさん見られるようになりました。中でも良く見かけるのは「焦点距離が正確なものを選んだ」「焦点距離が51.6mmぴったりのレンズを特に選んだ」的な内容のものですが、しかし選別基準を記した資料や直接の関係者の証言、あるいは実測に基づく統計分析などの根拠を示して主張している例がなぜか見つかりません。それどころか、この説は文末が「~と言われている」などと出所不明の伝聞調で書かれている例が数多く目立つのです。どうもこの説もやはり中村信一氏の『新M型ライカのすべて』から発しているように思われます。これにはどう書いてあるかというと、同書p.182に曰く、
 レンズ構成は、ノーマルタイプのズミクロンと同じである。しかし、私の使用した経験で言うと、このレンズは、ノーマルタイプより、レンズ性能が優れているように思う。レンズ構成は同じなのであるから、作ったロットの中から、物理特性のよいものをメガネ用にまわしたのではないかと思っている
(強調は引用時に(た)が行いました。)

どうやらこの記述をスタートとする“伝言ゲーム”が自然発生したらしく、その過程でまず主観的感想のみに基づく憶測に過ぎず具体的根拠がないことを明言したフレーズ、私の使用した経験で言うと、ように思うのではないかと思っているが脱落、続いて意味不明な物理特性のよいものを独自解釈で補完する試みが同時多発的に発生して、レンジファインダー機用のレンズであることからの類推や、ライカの標準レンズは51.6mmというバルナック・ライカ時代の常識に置換されていったものと思われます。

製造時に発生する焦点距離の誤差をライツはどう解決していたのか。それを示している資料を以下に二つ挙げます。

欧州での第二次大戦終結後にフランクフルトに近いヘキストに駐留したアメリカ占領軍本部の産業部門"G4"の実働部隊、"FIAT"と略称されていた野戦調査班がライツから図面や製造関係の資料を押収してオハイオ州デイトンに空輸、そこで有用と見なされたものがフィルムに複写されて「PBレポート」(Publication Board)に収録され一般に公開されました。PBレポートは1958年になって日本にもたらされ、国立国会図書館で閲覧可能になりました。その資料には何とあったか、神尾健三著・草思社刊『めざすはライカ! ある技術者がたどる日本カメラの軌跡』のp.243(草思社文庫版ではp.281)にはこうあります。
ライツではライカ用標準レンズの焦点距離を実測し、これを現場で区分けしておく。一方ヘリコイドネジのピッチの異なるものを用意し、焦点距離に見合ったものと選択して組み合わせる、と書かれていた。
ズミクロンはこの資料よりもかなり後の製品ですが、この方法がズミクロンでも踏襲されていたことが明らかになっています。

中川一夫『ライカ物語 Leica Story』のp.12~14に、ライツ社員キッセルバッハ氏(Kisselbach)がアマチュア写真家のために開示提供した資料"KISSELBACH-COLUMBUS"が掲載されています。鏡胴の距離目盛、無限遠指標の先、距離単位の向こうに小さく数字あるいはアルファベットが刻まれ、それがヘリコイドの適合焦点距離を示します。6群7枚のズミクロン50mm(5cm)の場合、"7"または"16"とあれば51.6mm、"8"または"19"なら51.9mm、"A"であれば52.2mmを示すと、その"KISSELBACH-COLUMBUS"には記されています。

そして、私が所有する1964年製DRズミクロンには「19」と刻まれています。"KISSELBACH-COLUMBUS"によると、これは51.9mmの個体(より厳密に解釈するなら、おそらく51.9mm±0.15mmの範囲内にある個体)ということになります。これによって「DRズミクロンは焦点距離が51.6mmぴったりのレンズを特に選んだ」とする説は文献と物証を以て否定されたことになります。



DRズミクロンでの近接撮影…と言っても、35mm判一眼レフ用のマクロではない標準レンズの最近接撮影距離と同じぐらいまでしか寄れないのですが…は、一般に「ヌーキー」("NOOKY"はバルナック・ライカとエルマー5cm F3.5のための近接撮影用アクセサリーで、DRズミクロンのものは正しくは"SDPOO"ですが)と呼ばれるパララックスを補正しながら近接領域でも距離計を連動させるメガネを装着して行います。これについて、『新M型ライカのすべて』のp.182の2行目から12行目にかけて、こう書かれています。
 ライツは、近接撮影を重視していて、バルナック時代から近接撮影装置をいろいろと発売していた。M型になっても、ズーキー、ベローズなどを作っていた。とはいっても、これらの装置の併用は煩わしいものであった。
 そこで、ライツは1959年に、接写アクセサリーによらないで、レンズの繰り出し量を増し、距離計用と視野の補正アダプターを付けた(中略)近接アタッチメント付きズミクロンを発売した。
ズーキー("SOOKY"、または"SOMKY")はDRズミクロンのヌーキーと同じく、パララックスを補正しながら距離計を連動させるアクセサリーです。この文章から受ける印象では、DRズミクロンは"SOOKY"などの近接用アクセサリーを不要とする意図を持って開発・発売されたように感じられるのですが、そう解釈していいのでしょうか?

DRズミクロンも固定鏡胴ズミクロンも、元々はどちらもレンズユニットがヘリコイドから外せるようになっていました(私の所持する1964年の個体は外せません)。"SOOKY"は"UOORF"を併用すると、その外したレンズユニットを装着して使用できます。ズーキーやベローズが煩わしいからDRズミクロンを発売したのであれば、なぜ1960年にもなってから"UOORF"が発売されたのでしょうか? 発売年も怪しいこの記述も、中村信一氏お得意の、ご自慢のコレクションをなで回しながらふけった脳内妄想の産物ではないのでしょうか? DRズミクロンが正確な焦点距離のものを精選していたとするなら、固定鏡胴ズミクロンは選別から外れたもの=焦点距離が不正確なものということになりますが、では固定鏡胴ズミクロンのレンズユニットに"UOORF"を併用して"SOOKY"で近接撮影した場合のピントはどうなのでしょうか?

DRズミクロンを特に精選されたものとする説は、少し考えるとほかにも疑問点が出てくる…1956年から68年までの固定鏡胴ズミクロンの総生産本数63,055本に対してDRズミクロンの総生産本数が55,145本に達し、ことに1956年(固定鏡胴 152本,DR 735本)・58年(同4,626本,6,409本)・60年(同5,916本,6,727本)にはDRズミクロンの生産数が固定鏡胴ズミクロンを大幅に上回り、この生産状況に鑑みてDRズミクロンを特に選抜されたものと見なすのはあまりに無理がありすぎる=選抜されたにしては生産数が多すぎると考えざるを得ません。個人的には、固定鏡胴ズミクロンとDRズミクロンの中古市場における価格差が、日本では近年になってDRズミクロンの価格が大きく上昇して急激に縮小した点に注目しています。つまり、海外市場で調達して日本国内の市場に出す場合、固定鏡胴ズミクロンよりDRズミクロンの方が利幅が大きくなっているのです。近年流布されている「DRズミクロン選抜スペシャルレンズ説」には、うがち過ぎとは思いますが、もしかすると何らかの作為的な背景があるのかもしれません。

近接撮影用アクセサリーに話を戻します。この用途のために用意されていたのは"SOOKY"だけではありません。「フォコスライド」もありました。

固定鏡胴ズミクロンやDRズミクロンのレンズユニットをヘリコイドリング"VSPOO"に装着、撮影倍率を上げたい場合は延長チューブ"Repro N"を併用してフォコスライド"OOTGU"に装着し、フォコスライドのマウントにカメラボディ(M3、M2、M1、LEICAVITを外したMP、ミノルタCLE)を、フォコスライドのピントグラスにはルーペを取り付けます。また、レンズユニットの先端には絞り操作リング付きの近接撮影・引伸機用フード"VTROO"(ライカのレンズは撮影だけでなく、引伸ばしにも使われていたのです)を取り付けます。そしてピントグラスをルーペで見ながらピントを合わせたらカメラボディをスライドイン、シャッターを切って撮影するというわけです。レンズの結像面をルーペで見るわけですから、距離計との連動精度は関係なくなります。

DRズミクロンとヌーキーは簡易的な近接撮影装置なのだろうと思います。そもそもDRズミクロンは、0.9mを超えて1.0m未満までの範囲の距離にはピントが合わせられません。きわめて凝ったフールプルーフ設計の鏡胴のおかげで、近接能力に穴があるのです。



FREEing 1/8scale "RACING MIKU Thailand Ver."
DR Summicron 50mm F2(F2), OLYMPUS OM-D E-M5 MarkⅡ(ISO 200, A mode)



DR Summicron 50mm F2(F2.8)


DR Summicron 50mm F2(F4)


DR Summicron 50mm F2(F5.6)



(2016年7月24日と同8月4日に追記、2016年8月26日と同9月3日、同12月20日に加筆修正を行い、加筆の参考とした資料も追記しました。2016年11月11日に、George H. Aklinのカナ表記を発音により近い表記に改めました。2016年12月28日に、資料の確認に基づく誤りの訂正と大幅な加筆を行いました。2017年2月11日に放射線量に関する記述と資料を、同2月28日にトリウムガラスの特許に関する記述を加筆しました。2017年8月19日に鏡胴の画像を追加、同8月19日と9月9日に一部の記述を見直し、資料を追記しました。2017年12月12日に日本のレンズ設計者による評価およびスクリューマウントの固定鏡胴モデルの光学設計に関する記述と、それらの出典資料を追記しました。2018年8月1日・同6日にわずかな加筆修正を行いました。)


DRズミクロンと1950~70年代の国産のF1.7~F2標準レンズの撮り比べもやってみています。よろしければ、そちらもご覧下さい。



参考資料(順不同):

新装版 現代のカメラとレンズ技術(小倉磐夫・写真工業出版社・ISBN4-87956-043-X C3072 P3000E・1995年10月17日 新装版第1刷)

カメラマンのための写真レンズの科学(吉田正太郎・地人書館・ISBN978-4-8052-0561-7 C3053 ¥2000E・1997年6月20日 新装版初版第1刷,2014年6月10日 新装版初版第5刷)

ライカ物語・誰も知らなかったライカの秘密 Leica im Spiegel der Erinnerungen(エーミール・G・ケラー Emil G. Keller・竹田正一郎 訳・光人社・ISBN978-4-7698-1410-8 C0098 ¥2500E・2008年10月7日発行)

めざすはライカ! ある技術者がたどる日本カメラの軌跡(神尾健三・草思社・ISBN4-7942-1256-9 C0034 ¥1800E・2003年11月7日 第1刷)

クラシックカメラ選書-1 ライカに追いつけ! 戦後日本カメラ技術者の回想(神尾健三・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12011-8 C0072 P1500E・1995年8月31日 第1刷)

クラシックカメラ選書-39 ミノルタかく戦えり(神尾健三・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12049-5 C0072 ¥1900E・2006年12月30日 第1刷)

クラシックカメラ選書-2 写真レンズの基礎と発展(小倉敏布・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12012-6 C0072 P2000E・1995年8月31日 第1刷)

クラシックカメラ選書-11 写真レンズの歴史 A History of the Photographic Lens(ルドルフ・キングズレーク Rudolf Kingslake・雄倉保行 訳・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12021-5 C0072 ¥2000E・1999年2月28日 第1刷)

クラシックカメラ選書-23 レンズテスト[第2集](中川治平,深堀和良・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12033-9 C0072 ¥1800E・2001年11月30日 第1刷)

カメラレビュー クラシックカメラ専科No.23 名レンズを探せ!! / トプコン35mmレンズシャッター一眼レフの系譜(朝日ソノラマ・T1062469582205 62469-58・1992年12月25日発行)
ライカ物語 Leica Story 42 近接撮影装置Ⅱ(中川一夫・p.98~107)

ライカ物語 Leica Story(中川一夫・朝日ソノラマ・ISBN4-257-03503-X C0072 ¥14000E・1997年9月17日 第1刷)

写真工業別冊 復刻版 ライカの歴史(中川一夫・写真工業出版社・雑誌04420-11 T1004420113905・1994年11月30日発行)

写真工業 2004年9月号 第62巻 第9号 通巻665号(写真工業出版社・雑誌04419-09・4910044190949 00829・2004年9月1日発行)

カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室(朝日ソノラマ・0072-003021-0049・1974年8月24日発行)

カメラドクター・シリーズ〔第2集〕 話題のカメラ診断室(朝日ソノラマ・0072-003022-0049・1974年8月24日発行)

カメラドクター・シリーズ〔第3集〕 カメラ診断室'76(朝日ソノラマ・0072-003047-0049・1975年11月30日発行)

アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀(朝日新聞社・ISBN4-02-272132-4 C9472 ¥1800E・2000年7月1日発行)

アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272146-4 C9472 ¥1800E・2001年12月1日発行)

アサヒカメラ 1979年4月増刊号 35㍉一眼レフのすべて(朝日新聞社・雑誌01404-4・1979年4月5日発行)

アサヒカメラ 1993年12月増刊 [カメラの系譜]郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編(朝日新聞社・雑誌01404-12・T1001404122403・1993年12月20日発行)

アサヒカメラ講座6 カメラと撮影の基礎(小穴純 監修・愛宕通英,狩野優,小穴純,宮部甫・アサヒカメラ編・朝日新聞社・1955年6月25日 第1刷)

カメラジャーナル新書別巻 ライカポケットブック 日本版 第二版(デニス・レーニ Dennis Laney・田中長徳 反町繁 訳・カメラジャーナル編集部・株式会社アルファベータ・ISBN4-87198-522-9 C0072 ¥2500E・2001年3月31日 第1刷)

科学写真便覧 上 新版(菊池真一,西村龍介,福島信之助,藤澤信 共編・丸善株式会社・1960年6月15日発行)

Kodak Aero Ektar 178mm f2.5 Lens - Radioactive (Thorium Glass Elements)

The Kodak aero ektar lens - aero ektar memorandumGoogle翻訳

Aero-Ektar LensesGoogle翻訳

George W. Morey - Geophysical Laboratory, Carnegie Institution of WashingtonGoogle翻訳

Thoriated Camera Lens (ca. 1970s)Google翻訳

ARTICOLI TECNICI DI ARGOMENTO FOTOGRAFICO by MARCO CAVINA
HISTORICA WETZLAR ITALIA - Summitar 5cm f/2Google翻訳

summicron 2/50 mm pour le Leica.Google翻訳

LEICA SUMMICRON 50mm Guide

Leica Wiki (English)

Leica M-Lenses : Their soul and secrets by Erwin Puts

Leica Lists

Radioactive Summicron

ライカを買おう Study Leica (Web Archive)

Leica(ライカ) SOOKY の使い方 - kumac's Mac

50mmF2クラスレンズの解像力: ニコンカメラの小(古)ネタ

レモン社新宿店ブログ
大阪手作りカメラクラブ : ライカレンズの微妙な焦点距離表示

灯台のフレネルレンズメーカー / Chance Brothers - レンズ小僧

Pilkington Company History

原子力百科事典 ATOMICA
アサヒカメラ ニューフェース診断室 -朝日新聞出版|dot.(ドット)



虚偽情報掲載文書(順不同):

カメラレビュー クラシックカメラ専科No.50 ライカブック '99 ライカのメカニズム(朝日ソノラマ・ソノラマMOOK・ISBN4-247-13023-7 C9472 ¥2429E・1999年3月25日発行)
ズミクロンについての私の知識(大谷昭夫・p.54~55)

クラシックカメラ選書-8 新M型ライカのすべて(中村信一・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12018-5 C0072 ¥1748E・1996年12月30日 第1刷,1997年6月30日 第3刷)





nice!(29)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 29

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0